拝殿に掛けられた大絵馬「めおと狐」。神社に伝わるお話です。
むかしむかし、江戸の神田小網町に定助という、それはそれは働き者で評判の大工が住んでいた。
江戸の町に一番鶏が鳴くころには、もう定助の家からは、金づちやかんなの音が聞こえてきた。
東の空に星が出るまで、それは続いた。おかみさんのお鈴も、定助と同じように早起きで働き者だった。長屋の共同井戸を使い始めるのは、このお鈴がいつも一番だった。
夫婦はとても仲がよかった。
二人にとって、この生活はまずしいながらも、幸せな毎日だった。
そんな毎日が続いたある日、定助はやんめ(流行性の眼病)にかかってしまった。定助はだんだん目が見えなくなるのを心配して、江戸中の医者をたずねたり、近くの神社や、遠くの薬師様まで出かけていって、絵馬をかけて、なおるようお祈りをした。
それでも一こうになおらなかった。
そんな時、風のたよりで、武州松山の野久(箭弓)稲荷が良いと聞いた。
定助は妻の鈴をつれて、さっそくその稲荷に行く事にきめた。
おこもりの仕度をして、遠くていまだ行った事のない松山をさして出発した。目の悪い定助にとっては、つらく長い旅のように感じられた。
箭弓稲荷についた二人は、休む間もなくおこもりに入り一心ふらんに神様にお願いした。
何日も何日もそれは続いた。
「なあ鈴よ、おれは毎日毎日まじめに働き、何んにも悪いこたあしねーのに、何んでやんめにかかり、しかもこんなに一生懸命お祈りしているのに、なおんねーのかなあー。」
定助の口からついついぐちがこぼれた。
「なにをいっているんです、おまえさん。もうすぐですよ、元気を出して下さい。」
「すまねーすまねー、ついついぐちをこぼしてしまって、おまえにも世話をかけるなー。」
定助はすまなそうにあやまって、見えない目で鈴を見上げながら、大工仕事で荒れた手で、鼻をこすった。鈴の目からなみだがこぼれた。
そしておこもりの最後の日、定助は鈴に手を引かれて、まだあたりがうすぐらい中を、定宿にしていた「松屋」を出て神社に入った。
すでに何人かの人が、うすぐらい拝殿の中で、うずくまるように手を合わせていた。
二人は人びとの後にならんで座った。
冬の明け方は、めっぽう寒かった。社の杉木立をふるわす、木枯の音が一そう寒くしているようだった。
二人はいっ生けんめいに祈った。
やがて、一番鶏が鳴き、二番鶏が鳴き、あたりがうす明るくなるころ、三番鶏の声が元気よく聞こえてきた。誰かが、ぐすぐすと鼻をこすった。
「あゝ鈴よ、夜が明けたようだな。」
定助はひとりごとのようにつぶやいた。そしてとつぜん、
「鈴、お鈴、あかりが。あかりが。」
「あかりがどうかしましたか。」
「どうかしたかじゃあねえ。あかりが見える見える。ほれそこの灯明も見えるぞ。この手もこの手も。」
「ほんとうですかおまえさん。ほんとに見えるんですか。」
鈴もおもわず大きな声を出してしまった。
二人は手をとりあってよろこんだ。まわりの人たちも、うれしそうにながめていた。
二人の足どりは軽かった。何度も何度もふり返ってお稲荷さんに頭をさげた。
江戸に帰った定助は、以前にもまして働きはじめた。
働いてためたお金で、定助はきみょうな事をはじめた。神社やお寺をまわっては、一文銭(穴あき銭)と両替しては穴あき銭をため始めたのである。
みんな不思議に思って聞いても、定助は笑っているだけで答えなかった。
雪が降り、桜が咲き、雲が流れて
三年の月日が、またたくまに流れた。
一文銭が沢山たまった定助は、江戸の有名な絵師をたすねた。定助は武州松山の稲荷神社の一件をのこらず話し、その神社に絵馬を奉納する気持(計画)を話した。
定助の話しは、絵師の心を動かした。しかし初めての仕事だった。絵師はじっとうでを組んでしばらく考えたのち、
「ようし、良くわかりました。私とて初めての仕事なので、どんな出来ばえになるかわからんが、とにかく精こんこめてやってみましょう。」
定助はなみだを流してよろこんだ。家に帰った定助は、鈴に計画の一部しじゅうを話してきかせた。
鈴ももちろん賛成でした。
絵師が精こんこめて作り上げたのは、定助が三年かかって集めた一文銭を使っての二匹の狐の大絵馬だった。
二人は大八車に大絵馬を乗せて、ふたたび武州松山の箭弓稲荷をめざして、江戸をあとにした。
箭弓神社についた二人は、世話になった「松屋」の主人や、大勢の人の手をかりて、拝殿の軒に、持って来た「めおと狐」の大絵馬をかけた。
立派に出来た大絵馬を見あげて、二人の目になみだが光った。
手助けをした大勢の人の目も、「松屋」の主人やおかみの目も、うるんだ。
涼しい風が、絵馬を見あげて集まった大勢の人の頭の上を通りすぎていった。
みんなにこにこ笑った。
遠くで狐がコンと鳴いた。